|
ホーエル (USS Hoel, DD-533) は、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級駆逐艦の1隻。艦名は南北戦争中のビックスバーグの包囲戦で戦功を挙げた中佐にちなむ。 ==艦歴== ===1943=== ホーエルはサンフランシスコのベスレヘム・スチールで1942年6月4日に起工し、12月19日にホーエル中佐の孫娘であるチャールズ・ブンカー・クレーン・ジュニア夫人によって進水。艦長ウィリアム・ドウ・トーマス中佐の指揮の下1943年7月19日に就役する。 就役後、ホーエルは8月16日にサンフランシスコ湾を出港してサンディエゴに向かったが、その道中で慣熟訓練と7発の爆雷を使って結果が判明していなかった水中音響の聴取テストを実施した。実戦に向けた最終的な改修のため9月17日からメア・アイランド海軍造船所に入り、改修作業終了後の10月26日に第47駆逐部隊に編入されて輸送船団に加わり、サンフランシスコを出港。10月31日に真珠湾に到着後、第47駆逐部隊司令A・O・クック大佐は旗艦を(''USS Heermann, DD-532'')からホーエルに移した。間もなく、ホーエルは第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)に編入されてリッチモンド・K・ターナー少将が率いる第52任務部隊に属することとなり、ギルバート諸島奪取のガルヴァニック作戦に参加することとなった。作戦に際し、ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群の3隻の護衛空母、リスカム・ベイ (''USS Liscome Bay, CVE-56'') 、コーラル・シー (''USS Coral Sea, CVE-57'') およびコレヒドール (''USS Corregidor, CVE-58'') を駆逐艦(''USS Morris, DD-417'')、(''USS Franks, DD-554'')、(''USS Hughes, DD-410'')および掃海艇(''USS Revenge, AM-110'')とともに護衛する。 11月10日、第52.3任務群は真珠湾を出撃し、マキン環礁に向かう。11月20日早暁、第52.3任務群は「赤ん坊の刈り込んだ短髪」(''baby flattops'')と通称された攻撃隊を発進させてマキンを空襲させ、マキンの戦いは始まった。続く3日間、第52.3任務群は艦載機をもってマキンに上陸した陸軍少将のの支援にあたる。海と空からの攻撃でマキンの日本軍拠点は次々と破られていった。しかし、11月24日早朝、日本海軍の伊号第一七五潜水艦(伊175)が第52.3任務群に接近し、魚雷を発射してリスカム・ベイに命中させる。逸れた2本目の魚雷はコーラル・シーをかすめ去るのが目撃された。リスカム・ベイは大爆発を起こし、ホーエルはリスカム・ベイから立ち上る300メートルほどの煙を目撃した。リスカム・ベイは炎と赤く焼けただれた部品を吹き上げたあと23分で沈没し、ムリニクス少将やリスカム・ベイ艦長大佐ら642名が艦と運命を共にした。ホーエルら第52.3任務群の駆逐艦は272名の生存者を救助した。翌11月25日夕刻、第52任務部隊は日本機の空襲を受け、日本機はパラシュート付の照明弾を投下して魚雷を13本発射したが、第52任務部隊は巧みな回避運動で被害を一つも受けなかった(ギルバート諸島沖航空戦)。 第52.3任務群は11月27日にマキン沖を離れ、ホーエルは攻略部隊に編入される。翌朝、ホーエルはターナー少将の任務部隊本体に合流し、12月1日にタラワから8キロ離れた沖合に到着し、環礁外で対潜哨戒に従事した。2日後、ホーエルは戦艦テネシー (''USS Tennessee, BB-43'') と輸送船団を護衛して真珠湾に向かい、12月11日に到着。3日後の12月14日、クック大佐は部隊旗艦をホーエルから(''USS McCord, DD-534'')に移した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーエル (DD-533)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|